【福岡・東公園】鎌倉の風吹く場所へ

玄界灘を見つめ、日本の未来を祈る2つの銅像

福岡の東区と言えば、筥崎宮や十日恵比須神社、九大医学部というイメージなのですが。
福岡県庁の南側にある東公園は、文永の役(1274年10月)で博多湾に現れ、蒙古軍と激戦になった地で、福岡市最初の自然公園となりました。
ここには、日本でもなかなかに珍しい銅像が2体も建っています。

東側に立つ像は、「日蓮上人立像」。
凛々しくも厳しいまなざしで、じっと北の玄界灘を見据えています。
右手には念珠、左手には「立正安国論」の巻物を持つ日蓮上人。
当時、海外からの侵略となる元寇を予言していたとも伝えられています。

「日蓮上人立像」
 ・高さ:4.84m
 ・青銅彫刻(ブロンズ)
 ・製作:岡倉天心(東京美術学校校長)
 ・鋳造:谷口鉄工所(佐賀市)
 ・起工:1892(明治25)年 
 ・完成:1904(明治37)年 
 ・福岡市指定有形文化財

 

西側に立つ像は、「亀山上皇立像」。
鎌倉時代の第90代天皇。在位したのは1260年ー1274年。
~世のために身をばをしまぬ心ともあらぶる神はてらしみるらむ~異国降伏の祈願をしたとの論もなされていて、
元寇によって炎上した筥崎宮の再建にあたり、「敵国降伏」の宸筆を納めています。
上皇像台座の敵国降伏の文字は初代福岡県知事の有栖川宮熾仁(たるひと)親王、
木彫像は筥崎宮に安置されています。
 

「亀山上皇立像」
 ・高さ:10.6m
  奈良の大仏(14.87m)、鎌倉の大仏(11.44m)に次ぐ像高です。
 ・青銅彫刻(ブロンズ)
 ・製作:山崎朝雲(博多出身の彫刻家・文化功労者)
 ・鋳造:谷口鉄工所(佐賀市)
 ・起工:湯地丈雄(福岡警察署長)氏らによって発起・1892(明治25)年頃 
 ・完成:1904(明治37)年 
 ・福岡県指定有形文化財
 

【歴史ミニコラム】

銅像建立には、13世紀の元寇(げんこう)と呼ばれる
蒙古来襲の歴史的な背景があります。

◆文永の役・弘安の役~神風の所以とは◆
13世紀初頭、モンゴル帝国を築いたのがかの有名なチンギス・ハン(在位1206年-1227年)です。人類史上最大の規模とも言われるヨーロッパ東部から東アジアの約9,000キロの広大な領土を手中にしていきました。中国北部の金を滅ぼし(1234年)、朝鮮半島の高麗にまで及びました(1259年)。そのハンの孫にあたるフビライ・ハンが第5代目の皇帝になり、元(首都・大都)に国号を決めました。日本に朝貢を求める国書を5回日本に送ったのですが、当時の鎌倉幕府の北条時宗は無視を続け、日本始まって以来の国難・元寇(蒙古来襲)が始まります。

1274年10月文永の役では、対馬・壱岐に現れ、西区の今津から博多湾に上陸。約4万の兵に戦艦900隻。
室見川河口~百道・西新~祖原山に陣設置~鳥飼・六本松・赤坂周辺は激戦地となりました。さらに、一部は箱崎へも上陸、筥崎宮が消失。いったん撤退した蒙古軍は暴風に合って大損害を受けました。

再びの襲来に備え、博多湾周辺に高さ3メートル・距離20キロの石壁の元寇防塁(げんこうぼうるい)を築きました(1276年)。

1279年、南宋を滅ぼして中国全土を手に入れたフビライは、再び軍船などを作り始めたと言われています。そしていよいよ2度目の元寇、弘安の役が1281年5月に始まります。
蒙古の軍は大規模で、高麗から兵力4万、艦船1千隻。中国・江南から兵力10余万、艦船3千500隻が日本へ出発。博多湾の能古島や志賀島に姿を現しました。
相対した日本軍の奇襲攻撃により、伊万里湾海上に逃れ、兵力を立て直し、一気に大宰府を目指そうとした矢先、暴風雨が直撃し、元軍の大半の船が沈んで、日本は国の存亡を揺るがす大危機から逃れたと伝えられています。

日蓮聖人銅像の受付でスヤスヤ寝ている猫ちゃん

東公園   Higashi (East) Park 

福岡県福岡市博多区東公園

 

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